第1章 役立たず、離婚協議書にサインしろ!

「この役立たず! さっさとこっちへ来なさい!」

ソファにふんぞり返り、足を組んだ派手な身なりのセレブが、床を拭いていた達央へ怒鳴りつけた。視線には、露骨な嫌悪と侮蔑がべったり張りついている。

達央は手を止め、訝しげに顔を上げた。

「どうしたの、お義母さん?」

セレブは離婚協議書をテーブルへ乱暴に投げ捨てる。声は氷のように冷たい。

「これにサインしなさい」

達央は表紙の「離婚協議書」の文字を見て、わずかに息を呑んだ。

「お義母さんの考え? それとも菜津美が自分で決めたこと?」

「役立たず! サインしろって言ったらサインするの! 口答えが多いのよ!」

セレブは甲高い声をさらに張り上げる。

「私はあの子の実の母親よ? 私が決められないとでも?」

「達央、あんたが有村家に婿入りして三年。食って寝てるだけのヒモ、ただの役立たず!」

「毎日家にいて、洗濯だの料理だの、まるで使用人。うちがあんたを置く意味がどこにあるの?」

「三年で、うちはちっぽけな会社から時価総額100億まで伸びたのよ。うちの娘に憧れる男なんて北から南まで列ができる!」

「そんな役立たずが、あの子の隣に立つ資格があると思う?」

「存在そのものが菜津美の恥よ。『ヒモを飼ってる』って笑われるだけ。あんたと菜津美は住む世界が違うの。有村家から出ていきなさい。それが互いのため!」

有村母は終始、上から見下ろす支配者の顔だった。ねちつく言葉、刺すような目。達央を泥に踏みつけ、価値のない塵にしてしまうつもりらしい。

達央は深く息を吸い、感情を押し殺す。

「離婚するなら、菜津美本人が来て話してくれ」

その一言が、有村母の逆鱗に触れた。

「この役立たず! うちの娘が、あんたみたいに暇だと思ってるの?」

「忙しいのよ! さっさとサインして出ていけ!」

達央はしばらく黙り、乾いた笑いとともに首を振った。

「離婚なんて、数分で済む話だろ」

「時価総額100億の社長様は、そんな数分すら 割けない のか。百億、千億の社長だって、そこまで偉そうにしない」

「離婚したいなら、本人が出てきて、俺の目の前で言え。そうじゃなきゃサインしない」

「達央! 調子に乗るんじゃない!」

有村母はテーブルを叩き、声を荒げた。

「いい? サインしなくても、有村家にはあんたを追い出す方法なんていくらでもあるの。最後に面子を残してやってるんだから、ありがたく思いなさい!」

「面子、ね」

達央は呆れたように首を振る。

この三年、有村母は一度たりとも彼を婿として扱わなかった。客がいようがいまいが命令口調で使い倒し、彼のプライドなど踏みにじってきた。それが今さら面子だなんて――笑わせる。

達央は踵を返し、出ていこうとした。有村母と口論する気はない。

いま彼が知りたいのは、有村菜津美の本心だけだった。

「役立たず! 一歩でも動いたら――!」

有村母がさらに罵声を浴びせようとした、そのとき。

ドアが開き、黒のビジネススーツに身を包んだ絶世の美女が入ってきた。長い髪が肩に落ち、凛とした体つきが目を奪う。室内の空気を察しても、表情ひとつ変えず、どこか冷めた様子だった。

その背後には、背広をきっちり着こなし、オールバックの青年が続いていた。

有村母は青年を見るなり、顔を作り替えたように笑みを浮かべて駆け寄る。

「今井さんじゃないの。どうしてこちらへ?」

青年は微笑んで頷き、からかうような視線を達央へ向けた。さっきの言い争いは、当然聞こえていたのだろう。

「おばさん、ずいぶん怒ってるみたいだけど、何があったの?」

「この役立たずのせいよ!」

有村母は達央を睨みつけると、怒鳴った。

「ほら、今井さんにお茶を淹れなさい!」

達央は取り合わず、菜津美へ冷たい視線を向ける。

「離婚は、お前の意思か?」

菜津美は眉を寄せ、達央の目を避けた。

「達央、今日は今井さんと仕事の話があるの。私たちのことは……あとで話す」

「先に出ていって」

達央は嘲るように言った。

「離婚は本人が出てこないのに、男を連れてくる時間はあるんだな。公私混同もいいところだ」

「達央、どういう意味!」

菜津美は睨みつけ、怒りを押し殺すように息を吐く。

「話はあと。今日は本当に忙しいの」

「今このタイミングで、面倒を増やさないで」

張り詰めた空気が、今にも裂けそうだった。

達央が譲らず見つめ続けるのを見て、菜津美は冷笑する。

「いいわ。今、話したいなら――はっきり言う」

「離婚協議書にサインして。円満に別れましょう」

「慰謝料は100万出す」

「100万?」

達央は自嘲気味に笑った。金で片づけるつもりか。

「三年一緒にいて……その三年が、100万で測れるって?」

「足りない? じゃあ三倍。300万でいい?」

菜津美は淡々としている。

達央はなお眉を寄せたまま、言葉を継いだ。

「菜津美、三年、俺は会社の経営に口を出さなかった。でも――」

「お前の好きなものも、アレルギーも、夜中に無理して寝落ちしたときに毛布をかける癖も、全部知ってる」

「お前は会社を100万から100億にした。普通の人間なら何世代も暮らせる金だ。それでも満たされないのか?」

「そんな曖昧な権力や金が、そこまで大事か?」

菜津美の瞳に、一瞬だけ迷いが走った。

だが有村母が割り込む。

「この役立たず、まるで自分の功績みたいに言って! ヒモはヒモよ!」

「毎日家でゴロゴロして、菜津美に稼がせておいて、よくそんな口が利けるわね!」

今井も鼻で笑う。

「達央、お前の『役立たず』って評判は江北じゃ有名だ」

「大人なんだから、要するにもっと金が欲しいだけだろ? くだらないことを並べて、こっちを丸め込めると思うなよ」

菜津美の迷いは、すぐに消え、態度も揺るがないものへと変わっていった。

達央を見る目には、失望と――どこか同情が混じる。

三年で会社をここまで伸ばした自分。その一方で、彼は数百万に執着している。

「達央。結婚して三年、あなたは家で洗濯と料理ばかり。仕事では何ひとつ役に立たなかった」

「今、会社の資金繰りに50億の穴が空いてる。有村家は倒産寸前よ」

「あなたに何ができるの?」

今井は余裕の笑みを浮かべた。

今日、自分は天龍グループの名で50億の提携案件を持ってきた。穴を埋めるには十分だ。

「この役立たずが俺と比べられるわけがない。有村さんに釣り合うはずもない」

「格の違う人間には理解できないだろうな。50億が、ただのゼロの並びに見えるかもしれない」

そう言いつつ、今井自身も、その50億案件の裏事情までは知らなかった。

次のチャプター